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2012年1月9 被災地報告
平成24年1月9日ヘルスケアプロジェクトから感じたこと
東北大学で歯科医としての基礎を学んだ身として、もっと早く行ければ良かったのですが、
この連休を利用して仙台から石巻に行く機会を持つことができました。

以前に物資提供で協力していた、後輩歯科医のやっているSmile with youの訪問に同行させてもらい、石巻の仮設住宅団地で住民の方のお話相手をするとともに、簡単な歯科相談・検診を行いました。


震災後にFacebookで10年ぶりに再会した、石巻で開業している後輩のお見舞いもしたいと思っていたのですが、
その彼が逆に仮設住宅団地の集会場に来てくれたので、逆に歯科相談などを手伝ってもらいながら、
震災とその後の様々な話も聞かせてもらいました。


昼過ぎには予定していたボランティア活動を終えたので、帰京前に、小学生と先生70名以上が津波の犠牲になった大川小学校とその周辺に行きました。
報道で何度も何度も繰り返し見てきたはずの建物ではありますが、
建物の周りに張り巡らされたロープ。
「倒壊の危険があるため立ち入り禁止」の立て札。
慰霊碑と鐘。
散々報道で話を聞いていて、実際に現場で、中や天井、2階の窓までめちゃめちゃになった建物を見ていてさえも、とてもこの2階まで「水」が来たとは信じがたく、自分の立つグランドレベルから見上げたこの大きな建物が、すっぽりと水に浸かっている映像を思い浮かべることすらできませんでした。

周囲は土の山と、一つだけ病院の建物があるほかは何も見当たらない一面の更地です。
しかしそこは歩いてみると民家のコンクリートの基礎だけがところどころにあります。

今回訪問させていただいた仮設住宅団地には、まさにこのエリアの方が入居していていました。
僕がお話をうかがった方も、小学校2年生の女の子のお孫さんを亡くされたと、うっすらと涙をうかべながら、時には「もう言ってもしかたないんだけれど」と自嘲ぎみに笑みを浮かべることもありながら、お話をしてくれました。

ですので、小学校を取り囲んで民家の建ち並ぶ日常があったことの痕跡や慰霊碑を前に、
「地震と津波のせいだから誰も責められないけれど、亡くなった孫と娘を亡くした自分の娘がかわいそうだ」
というその方のつぶやきが思い出され、こちらも目に浮かぶ涙を必死に堪えました。

大川小学校から、河口の方へやっと行けるようになった、という話を聞き、もう少しだけ車を走らせました。
まるで湖か海の上に、一本道だけがあるような光景に唖然とします。なぜなら、そこは「地図上では陸地」のはずなのですが海が広がっているのです。
地盤沈下と水がひいていかないことによって、このように「水の中に家が点在している」かのような状況になっているようです。集会所で「家は丈夫に作ってあったから残ったんだけれど、とても戻れそうもない」とお話すしていた方がいて、正直ピンとこないままでいましたが、この光景を見て、彼女の言っていた戻れないという言葉の「意味」と重みを一度に受け、「なんで家があるのに帰れないの?」などという素朴な質問を思い浮かべた自分の想像力のなさを恥入りました。
思えばフクシマのある地域の人は、水に浸かってもおらず、もちろん燃えても崩れてもいない、震災前と変わらぬ我が家と我が土地を、「計測機で測らないとわからない何か」に汚染されて、「とても戻れそうもない」と感じられている方が大勢いるはずなのですよね。

今回会うことのできた仙台の後輩たちからは、3月4月と慣れない検死の仕事に奔走した話を聞きました。
まだ「避難所」に多くの人が暮らしていたころ、歯ブラシが足りない、入れ歯が無くなって食事ができないから急ごしらえで作る、そういう支援をした歯科医も大勢います。

しかし今東京から出かけて行って、矯正歯科治療以外は素人でしかない「僕」にできることは、残念ながら多くありません。
これまでに活動を続けていた後輩たちはともかく、僕の場合はむしろ「ほとんどない」と言う方が正しいかもしれません。
今回も、仮設住宅団地では「お話を聞かせていただいている」のだという自己認識があるくらいで、ボランティア活動を手伝いに来たとはいっても、会の最後には「今日はお話きかせてくださってありがとうございました。」と自ずから言っていました。

ですので、せめてもの自分の果たせる役割として、これだけの災害が本当に起きて、石巻のような比較的人口が多く、東北最大の都市・仙台からのアクセスが良い町でも、まだまだこんな状態だということを見てきた。
そしてそれを家族や私の医院のスタッフや、これを読んでくれている方々に伝えることだけはしておきたいと思います。

この機会を作ってくれた先生の一人に、
「こうして継続して来るなんて、なかなかできることじゃないよ」と僕が感謝をこめて言った時、
「あの時助けてあげたい、何かしたいという気持ちは多くの人が持っていたはずだけれど、実際に何かするかどうかとは、紙一重の差だけなんだと思います」と言っていましたが、
今はガスが一カ月以上停まっていた仙台市ですら、その繁華街のにぎわいは被災地であったことなどまるで感じられません。

知らないでいて、忘れてしまえば、あの時の何かしたいという気持ちももちろん忘れてしまいます。
つらい思い出だったりすれば、もちろん忘れて前に進まないといけないこともありますが、忘れず背負って歩かないといけないこともまた、あると思うのです。

フクシマしかり、三陸の数々の被災地しかり。政治家でもメディアでもいいですが、誰が何をして何を言ったか、ちゃんと覚えておくだけでも、大事なことだと思います。
大塚亮